精神障がい者・発達障がい者が「まともに生きられない」世の中に対して

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みずにゃん

どうも、みずにゃんです。

ごめんなさい、今日は今の僕の思いを、思うまで書かせてください。

「あそぶログ!」と銘打ったこのブログでは、できる限りマイナス思考になる記事を書かないスタンスでいました。でも最近になって、表だけを語るのは”真実”ではない、と思い始めています。

この記事は、僕の”偽りない本心”を伝えようと思い、書くことにしました。
長文ですし内容も雑多ではあるのですが、お時間の許す限り、このページを開いたすべての方に読んでいただきたい内容です。

余談ですが、これをちょうど”某偽善番組”を目前に控えているタイミングで書いています。
(ここではあえて番組名は伏せます。番組名の文字列を見るだけ、いや店先であの黄色い募金箱を見るだけで、吐き気がするからです)

この記事は、“偽善番組”ですら伝えてくれない、「障がい者の本当の悩みと苦しみ」「障がい者を救うための正しい考え方」の部分をかいつまんで書いていきます。
出せるところまで本音を出していこうと思っています。
お時間を頂戴し申し訳ありませんが、最後までどうぞお付き合いいただけたら幸いです。

どうして、からだが一向に良くならないの?

僕は「精神障がい」を生まれつき抱えながら生きています。初診こそ小学5年生のときですが、入学前から症状がいろいろなトラブルの形で噴出し、学校から受診を勧められたことがきっかけです。

現在も主治医から「自閉スペクトラム症」「双極性障害」の診断を下され、”治療”を続けています。2級の精神障害者手帳を交付され、障害年金こそ受給していませんが、ホームヘルパーを付けるなど、数々の制約の下で日々生活しています。

30年間ずっと精神障がいというハンディキャップを抱えながら生きてきた、と思っていただいて結構です。

※イメージです。

「障害者」という表現は僕たち障がいをもつすべての人が気分を害する表現だと思っているので、この記事では「障がい者」と表現します(※固有名詞で使われている場合をのぞく)

同様に「健常者」という表現も大嫌いなので、この記事では障がいを持たない人たちのことを「障害のない人たち」と表現することにします。

なんとか少しでも障害のない人たちの日々に近づけたいと頑張ってきた身ですが、社会(≒障害のない人たち)から”イエス”と言ってもらえないまま、だましだましの日々を凌いできたところにコロナや物価高が押し寄せ、僕の向かいたい方とは真逆の、ジリ貧な毎日に徐々になってきている気がしてなりません。

実際、僕の心身は疲弊が進み、昨秋から長期的に体を崩しています。ブログでは公表しなかったものの、春には主治医からついにドクターストップがかかり、3ヶ月にわたって会社労働は休職せざるを得ませんでした。7月に入って所属を転属したうえで復帰したものの、給与は大幅に減額し、さらに苦しさは増してしまっています。
ビーノ(原付)を導入して通勤手段を変更したり、在宅勤務を入れてみたりと、あの手この手を尽くしてみましたが、トータルで見てみると、残念ながら改善とまではいきませんでした。

※イメージです。

リフレッシュしようにもそんなにお金はありませんから、家でだらだらと”くうねるあそぶ”の3連コンボを決め込んだ結果、こんな僕生きてて良いのか、と罪悪感も付いてきてしまい、長期休養は逆効果だった気もします。
悪夢を見る確率も増え、うらにゃんには夜驚症状があるとまで言われました。

メンタルだけでなくフィジカル面でも悪影響が及んでいます。お腹を壊しやすくなり、毎日下痢便に悩まされる日々。動悸も増えていると思います。コロナはノーワクチンのまま3年間罹患していませんでしたが、ついにお正月のタイミングで罹患してしまい、免疫力の低下を感じています(このあたりは加齢もあると思うのでなんとも、ですけど・・・)

どんどん家計も仕事も体調も悪くなっていく日々。努力しても、努力しても、悪化していく一方。

その状況のもとで、世の中になかなか理解してもらえないことと、サポートを受けられないことに対して、僕は怒りを感じているのです。

精神障がい者が、”本当に求めている”もの

精神障がい者(※「発達障がい」は「精神障がい」の一種です)が障害のない人たちと比べて決定的に違うのは、「感情のコントロールが苦手(orできない)」というところだけです。
トラブルさえなければ、普通に暮らせる人も多いです。外部サポートが必要なのは、この部分だけです。

逆に言えば、ひとりで感情をコントロールすることが難しいので、感情が入りやすい部分に関してだけは、きちんと外部からのサポートが不可欠です。
そう、精神障がいのみんなが真に欲しがっているのは、周りからの適切なサポートなのです。

勘違いされたくないので言っておきますが、このサポートは”治療”のことではありません。投薬と通院だけで治るんだったら、苦労しませんって。

このサポートに関しては個人個人で異なってくるので一律にコレ、とは言えませんが、例を挙げるなら

  • 就労(仕事)や学業を安定して行うための支援
  • 家計の援助(資金支援、物的支援、住宅支援など)
  • 家事援助(各種介護サービスなど)
  • 移動支援(運賃割引、各種送迎サービスなど。精神障がい者は、欠格や経済面を理由に免許を持てない人も多い)
  • 感覚過敏への配慮(クワイエットアワーなど)
  • コミュニティ・居場所の提供(自らの意見を共有する場所の確保。デイサービスもこれに入る)
  • 言葉づかいへの配慮

などが代表例です。

悪しきビジネスのせいで、精神障がい者の自立は遠ざかっていく

もちろん障がい者たちにとって有益なサポートはありがたいことにたくさんあるわけですが、その支援制度をお金稼ぎのツールに使うことを主目的とした、あくどいビジネスが蔓延ってしまっているのも事実です。

  • “普通の人”に比べて大幅に薄い仕事と少ない給与しか与えてくれない「障害者雇用」(障がい者を採用せず外人ばかりを採用する企業よりはマシだと思うが・・・)
  • 障がい者を薬漬けにし、完治もできないのに通院をリピートさせてお金を巻き上げていく「精神科・心療内科のヤブ医者」
  • 水際作戦を使い、有料の社労士などを通さないと障害年金の申請をマトモに受け付けてすらくれない「年金機構」
  • 精神障害者手帳をはじめ各種手続きのために、嫌でも足繁く通わせ負担を強いらせようとしてくる「お役所」
  • 自立支援の名目のはずなのに、利用者を歯車として使うだけでマトモな支援をせず、安い時給(大半は最低賃金)で使い叩こうとする「就労支援A型事業所」
  • 雇用契約すら結ばせず、いくら作業しても雀の涙ほどの額(1日500円くらい)しかもらえない(どころか一部には利用料をぼったくろうとする)「就労支援B型事業所」
  • 障がい者を見世物にして募金を募らせ、募金額の大半を出演者のギャラと系列局の着服金に悪用する、「日本テレビが毎年放映する、チャリティーもどきの偽善番組」

これらはいかにも障がい者の方々を表向ではき支えているように見せかけて、自分たち(ビジネスをする側)のお金稼ぎの道具として使っているだけです。
なので、利用者である障がい者の人たちは、自立への一歩を踏み出せず、貧困に陥っていくのです。

精神障がい者は、経済的に困窮している割合が高いのは確かだろう

これらに参入しているすべてのビジネスが悪どい訳ではないのは確かですが、障がい者の人たちの家計や心が潤うようなサポートを実際に行えているのはどれほどでしょうか?
ごくごくわずかではないか、と個人的には思います。

支えてもらえないと、死んでしまう。

たしかに、精神障がいの人たちをサポートするのは並大抵のことではありませんし、そこに苦言を呈す障がいのない方々が発する意見も理解できる部分があります。
僕だって、障がいの当事者として申し訳ない、と思う側面もあります。だから、僕たち当事者が周囲に対して支援を強く求めてしまうことは、お互いにとって、とても心苦しいことです。

とはいえ、身体障がいや知的障がいと異なり、精神障がいというのは周囲の理解やサポートを得られにくいこともあり、当事者たちが孤立無援になってしまう人も多いのです。

希死念慮があったり、うつ病を発症して自殺する人の多くは、周囲のサポートを得ることができれば救える命だと感じます。彼らは、周りからの支援が絶たれることで、自ら命を経ってしまうわけです。

僕が昨秋から心身を崩してしまった最大の理由は、自分でも判明しています。
「コミュニティ」の場をひとつ、転職したことで失ってしまったからです。

これまで、職場の人たちと適度にコミュニケーションを取ることで、大きなトラブルを抱えることなく数年間過ごせてきました。僕はノンスモーカーですが、休憩時は喫煙所に出入りして、楽しいこと、他愛もないこと、各々の趣味話、愚痴などを共有することで、ストレスを発散してきました。

※イメージです。

昨秋、仕事のステップアップを見据えて、自転車で10分強の郊外の職場から、名古屋市中区の都心の職場に身を移したのが、仇となってしまいました。新天地で新しいコミュニティに加わることができれば問題ないはずが、その職場でコミュニティを確保できませんでした。

※イメージです。

自分が満足にコミュニケーションを取れなくてストレスを溜めながらの電車通勤は、地獄でした。朝は座れるし静かで楽だったのですが、帰りは楽しそうに話をしている学生や若年女性と同じ電車。あまりにも耐えられず、過呼吸で途中駅で下車する日もあったくらいです。
しかも、自転車で駅まで30分、橋越え2回でヘロヘロになるわけです。そりゃ、体壊れますって。

僕は、高校時代を私立の進学校、それも難関大学を目指す人たちが集う「特進コース」に属していました。孤独に加えて、勉強漬けから来る疲れ(勉強だけで1日終わってしまう)、学校や親からのプレッシャーにより、僕の体が壊れていきました。
結果、学業意欲は喪失し、親のエゴ(経済的都合)も加わり、中堅私立大学(南山・名城・中京など)に通うことすらも叶えられず、いい大学には進むことができず、中部大学という、低レベルでルールがんじがらめのキャンパスに行くしかありませんでした。
アオハルもキャンパスライフも満喫できなかった自分の苦い経験が聴覚過敏を伴ってフラッシュバックしてしまうのです。

ビーノを導入して電車通勤を回避し、在宅勤務も導入しましたが、これが逆にコミュニケーションの機会をさらに激減させてしまう結果となったほか、在宅では、仕事にも集中できなくなってしまい羽目に。これが、春の長期休養のトリガーの要因にもなっていきました・・・。

支えてもらえているからこそ・・・

僕だって死にたいと思うときはあります。
ひとり暮らし時代は、家族にすら僕のメンタルをなかなか理解してもらえなくて、孤独に耐えかねてTwitterで希死念慮をツイートよくしていたくらいです。
それに対して、「死ぬな!」「がんばろうよ!」と上から目線で物事を言う人たちに、強い憤りを感じたこともありました。

でも、僕が自殺せずに日々を頑張ろうとしているのは、うらにゃん(と家族のみなさん)、ブログの読者さん、体操服プロジェクトのご支援者さま、職場の方々など、各所からサポートをいただけている、まだまだ恵まれた環境にいると思えているからです。

めちゃめちゃ嬉しいし、感謝の気持ちでいっぱいです。

とりわけ、パートナーのうらにゃんの存在はかなり大きいです。一緒に住んでくれることで、僕もうらにゃんも寂しい思いを最小限化できているから。
僕はうらにゃんにいろいろ支えてもらっていますし、うらにゃんも先天の精神障がいを持っているので、僕がサポートする場面も多々あります。

うらにゃんの場合、希死念慮や自己犠牲の精神が非常に強く、加えててんかんの大発作も何度か起きています。僕以上に生活の自由を縛られ、苦しんでいると思います。

障がいを抱えながら充実した人生を送れている人はみな、周囲のサポートが手厚い環境で、お互いが支え合いができているのではないでしょうか?

とはいえ、就労面や経済面ではまだまだどん底ですし、昨秋までいた職場並みにコミュニケーションが取れる代替の居場所の確保は、まだできていません。
仕事のことや、家計のことでサポートを受けられていないのが、今の僕の深刻な悩みですし、この部分をサポートしていただける方がもしいらっしゃれば、僕の心身は回復していくと思います。

もちろん他力本願ではなく、僕自身もできうる範囲で努力が必要ですし、既にしていることもあります。
せっかくビーノを手に入れて行動範囲が広くなりましたから、今まで行ったことのないスポットへ行ってリフレッシュしたり、面白いお店を探したりしています。

ビーノ

その結果、マスターや常連のお客さんとコミュニケーションが取れる、個人経営の喫茶店を発見することが叶いました。
30年生きてきた中で、断トツに美味なコーヒーを味わえるお店なのですが、その名の通り出てくるコーヒーはすべて「フェアトレードコーヒー」です。
このコーヒーで、僕とは比較にもならないような貧困で苦しい日々を送る国の方たちを救うことができる。そして、このお店の雰囲気は、僕の心身も救われる。ひょっとしたら、このお店にいるひとときが、最近一番安心してるかもしれません。

“なにかで補填すること”のリスク

なかなか支援やサポートを受けられないとき、精神障がい者の多くは“モノ”を使って不足するココロを満たそうとします。
ですが、モノでココロを補填する考えは、非常にリスクが高く、すればするほど自立を遠ざけていきます

精神障がいを持つ方の多くが、「買い物依存」や「ホールディング」に悩まされています。僕も、そのうちのひとりだと思っています。
買い物依存が悪化すると、借金を抱え最終的に破産に至ってしまったり、家のゴミ屋敷化など、深刻なトラブルが待っています。

分かってるんです、改善するには買い物を抑えるべきである、と。でも、なかなか止めることができない。買って心を満たすことを止めてしまうことが我慢に繋がり、かえってストレスに繋がってしまうからなのです。

だから、モノが揃わなくてもココロを満タンにできるサポートは絶対に必要なのです。

愛は地球を救いはしない

今まで述べてきたように、精神障がいの人たちが人並みに豊かに暮らしていくためには、愛情・同情・物欲・性欲を満たすだけでは不充分で、有益な行動を伴ったサポート体制が不可欠です。

贅沢だと思われるかもわかりませんが、愛だけでは救えないのは間違いのない事実といえます。

だからといって、僕たち障がいの当事者はただ他力本願で支援を待っていればいいかというと、それは全く違います。僕たち障がい者だって、一定の努力は必要です。支援してくださる人たちが、支援してよかった、と思えるように日々頑張っていきたいものです。

当事者としての僕なりのソリューション

もうちょっとだけ言わせてください。

僕は精神障がいの当事者の立場から、なにかできることはないかとずっと考え続けてきました。
この記事で述べてきたように、精神障がいの人たちはコミュニケーションに満たされていないことを重大なストレスだと認識しています。

ただでさえ、AIやロボットの普及で人と人とが接する機会を失いつつある世の中。
だから、僕としては、障がいのあるなしに関わらず、コミュニケーションを通じて日本で暮らす人々が笑顔になれる社会があればいいと思うのです。
だから、ビジネスという体にはなってしまいますが、僕がしゃべり相手となって、コミュニケーションの場を提供するサービスを始めようと思い、水面下で準備を進めていたところです。

このサービスは、基本的に「どんな話でも聞く(※法的に問題あるものを除く)をモットーに掲げ、自慢話、愚痴、人生相談、趣味話、政治討論など、「レンタルおしゃべり相手」として使っていただけるようにしたいと考えております。
お客様はもちろんのこと、僕もサービスを通してコミュニケーション不足を補うことができ、一石二鳥です。

コミュニケーションは、AIやコンピューターやロボットにはできない、人間の芸当です。
AIの時代だからこそ、人間にしかできないことを仕事にしたいのです。

現時点ではまだ先の話ですが、もしこれを軌道に乗せることができれば、障がいを持つ方には割引を適用できる制度なども視野に入れています。

ただ、僕も精神障がい者ですし、軌道に乗せていくには、僕単独の力だけでは叶いません。
僕の考えに共感いただける人々にご協力・ご支援を仰ぎつつ、自分も成長していきたいと考えています。

まだ限定的ではありますが、サービスを提供するための1つめのステップまでは、自力でたどり着くことができました。
詳細に関しては、また、近日中にお知らせできれば、と思っています。

おわりに

今日は長い文章になってしまいましたが、ここまで読んでいただけた方には感謝の気持ちでいっぱいです。
だいぶオブラートに包んだ表現に配慮させてはいただきましたが、一部刺々しい表現もあり、不快を感じられた方にはお詫び申し上げます。

もし反響があれば、精神障がい者が笑顔で過ごせるための記事を、不定期で展開したいとも考えています。
普段の記事はもっと楽しいことを書いているので、お時間が許すなら、ぜひ見ていただければと思います。
本日は最後までお読みいただき、ありがとうございました。 みず

最後まで読んでいただき、
ありがとうございました!

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